きらちゃんと実存主義
序論
日向坂46 竹内希来里ちゃん(以下、きらりん)の冠番組「日向坂46 竹内希来里の地元できらる」(以下、じもきら)では、番組公式キャラクターをきらちゃんという名前のきらりんが描いた犬が務めている。
本稿では、きらちゃんというキャラクターの性質を哲学思想の潮流の1つである実存主義の視座から捉え直し、その奥にあるきらりんのメンタリティの輪郭を掴もうとすることが目的である。
文章全体の流れは、まず実存主義とはどのような思想なのかを概観し、そのあとに実存主義から導かれる帰結をきらちゃんに照らしあわせてみる、最後にそこから見えてくるきらりんの価値観をまとめる、というものになっている。
実存主義とは何か
実存主義とは端的に言うと人間の存在様式について論じた1つの哲学思想である。
以下では、実存主義で用いられる用語を解説しながら、実存主義が人間とそれ以外をどのように隔絶させているのかを見ていく。
実存は本質に先立つ
日常でなんらかの存在を表す時には「ある」という言葉が用いられる。普段何気なく使っているこの語彙も、注意深く観察すると2つの用法があることに気づく。
1つは「Aがある」という場合である。
これは現実に具体的なあるものが存在している状態を表しており、実存主義の言葉に換言すると「事実存在(existence)」についての表現である。
我々が「目の前にバナナがある」というときの「ある」は、事実存在に言及していると考えることができる。
つまり、事実存在は存在という概念のうち、ある事物がただ単にそこに存在しているという側面を指す用語と言える。
また、「実存」という語はこの事実存在の略である。
もう1つは「Aである」という場合である。
これはあるものが持っている特徴や性質に関する概念であり、それらの総体を事実存在に対して「本質存在(essence)」と呼ぶ。
先ほどのバナナの例で考えると、「バナナは黄色くて細長い果物である」といった場合には、存在の中でも本質存在の側面に言及しているとみなせる。
以上で見たように、事実存在と本質存在はそれぞれ存在の一様態であるが、ここからはさらに進めて両者の関係から導かれる一段階上の存在概念を考えていく。
まず、事実存在と本質存在が常に一致している存在として即自存在がある。 これは実存論者であるサルトルによると、「それがあるところのものであり、それがあらぬところのものではあらぬような存在」のことである。言い換えると、即自存在は同一律「AはAである」と矛盾律「Aは非Aでない」を満たす存在として閉じている。 このことはペーパーナイフの例を考えると分かりやすい。ペーパーナイフとは紙を切るという目的のために存在する道具であり、素材や形状、大きさがあらかじめ規定されている。紙を切る目的を前提とせず、自由な素材や形状で作られたペーパーナイフの存在はありえない。バナナにはあらかじめ「黄色くて細長い果物」という本質があり、その本質の欄外にある存在はバナナの事実存在とはみなされない。 この意味で、即自存在において実存は本質に従属している。
対して、即自存在ではない存在が対自存在である。 これは標語的には「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるような存在」で、「AはAでなく、Aは非Aであるような存在」と言える。 ニュアンスが削ぎ落とされることを承知の上であえて極端に単純化すると、あらかじめ規定された本質を持たず、常に脱自的・超越的であることが対自存在の在り方である。 そして実存主義によると、対自存在であり得るのは意識をもち自己を省みる眼差しを具有することができる人間のみとなる。 これが人間存在についての有名な言葉である「実存は本質に先立つ」の意味である。
まとめると、実存主義では事前の規定がなく実存が本質に先立つような人間の存在様式を対自存在として、その他の存在に対して固有の地位を持たせている。
偶然性と投企
前節で見たように、実存主義では人間は対自存在と呼ばれる「AはAでなく、Aは非Aであるような存在」という揺らぎを内包した形態で存在しているとみなされる。 このことは、人間存在はその他の事物と比べて質的に異なる偶発性・主体性・個別性を備えていることを意味する。 対自存在が本質規定と相反する以上、人間存在は偶然的で不条理であらざるを得ず、演繹によって正当化することはできない。
そのような本質という強固な外骨格なしに不確実な状況に放り出されている人間は、自由な選択と決断によって常に今ある自分自身を脱し続けていく不断の自己生成の運動を強いられている。 この一連の営みを、実存主義の文脈で投企(project)と呼ぶ。 projectとは「pro=前に」「ject=投げる」という意味の語で、投企という言葉は人間が未来に向けて自分の存在を投げかけて、現にある自分を脱してまだあらぬ自己を実現させていく営みを指している。
投企は対自存在の定義から導かれたことから分かるように、人間存在に固有の機構であり、人間存在である以上避けることのできない宿命でもある。
「きらちゃん」という実存
ここまでで見てきたように、またサルトルの有名な講演が「実存主義とはヒューマニズムである」と題されたことから分かるように、実存主義とは徹底して人間の存在に関する思想である。 しかしここで、あえて実存主義における実存の概念をきらりんが生み出した一キャラであるきらちゃんに適用してみる。 実存主義の本流からは外れた議論となるかもしれないが、背景にあるきらりんのメンタリティを見通す道のりと理解していただきたい。
ここで、次節から考えるきらちゃんに関する事象を挙げておく。
- きらちゃんには設定がない
https://youtu.be/hjjlvYku0zY?si=87x50-7DviEPeBZU&t=299
- きらちゃんは改名、イメチェンを経験した
https://youtu.be/ZPMopgBYJ40?si=bI1BlXPR93MSg63X
https://youtu.be/YgKXncNpvOQ?si=9rcnNg7aLeN1SV7R
対自存在としてのきらちゃん
きらりんはじもきらの番外編でさまざまなインタビューを受けており、その中できらちゃんの設定について深掘りされたことがある(事象1の動画を参照)。 スタッフさんに「うさぎとかきらちゃん、くまとかの設定とかあるのかなと思って。例えば、性別とか、こんな食べ物が好きとか。」と聞かれた際のきらりんの回答はこうである。
ないです!なんにもないです(笑)
これはきらちゃんという存在は、先行して設定という属性や性質が想定されていた訳ではなく、それ以前にまず誕生していたことを示している。
ここで対自存在についておさらいしておくと、事前に定められた規定を持たず「実存が本質に先立つ」ような存在のことである。 このことはきらちゃんに敷衍することができ、規定を持たないことはきらちゃんに設定がないことに符合する。 当然じもきら公式キャラクターという役割を務めてはいるが、突き詰めるときらりんはじもきらが始まる以前から継続してきらちゃんを描き続けており、きらちゃんが生まれた時には番組のキャラという性質すら規定されていなかった。 きらちゃんは役割や設定という本質に束縛された形で生み出されたのではなく、まず存在ありきのキャラであると言うことができる。
つまり、まさしくきらちゃんは「実存が本質に先立つ」ような、対自存在の性質を持つ存在である。
投企する主体としてのきらちゃん
続いてきらちゃんに関する事象2について見ていく。 きらちゃんは姓名判断によって大凶と告げられ改名(事象2の動画1つ目を参照)し、きらりんによってビジュアルを描き直されるというイメチェン(事象2の動画2つ目を参照)を経験している。
占いという偶発的で非演繹的な事象に相対して名前を選び取りなおし、「もっと可愛く描けるから」という主体的な理由で見た目を再構築したきらちゃんは、不確実な未来へ向けて絶えず自分を投げかけ続けている。 このことから、人間存在にとって避けられない必要条件である投企の義務を、きらちゃんも履行していると言えるであろう。
また、前節のきらちゃんの設定について尋ねられた際のきらりんは、「設定はない」と答えた後に次のように付け加えている。
私が描いてるキャラクターは (中略) 特定してこれって決めるのではなくて その場に応じて変身するイメージが私の中では1番いいのかなって思ってます
これは「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるような存在」として、今はまだ実現していないまだ見ぬ自分を志向し続けるという投企の性質を端的に表している。
要するに、きらちゃんはある目的や本質のために生み出された単なる道具的存在ではなく、未来に向けて投企を行う人間存在の類型として再解釈することができる。
きらりんの自由へ向かう主体性
本稿の結びにあたり、これまでのきらちゃんへの考察から見えてくる、きらりん自身のメンタリティについて考える。
ここまでで、きらちゃんを取り巻く事象がきらちゃんの存在の個別性を浮かび上がらせていることを見てきた。 しかし当然ながら、きらちゃんはあくまでキャラクターであり、きらちゃんの存在は背後にあるきらりんの意志と密接不可分に結びついている。 つまり前章までで述べてきたきらちゃんの唯一無二の個別性は、取りも直さずきらりんの意志であり行動であり決断の結果である。
実存主義は人間が対自存在であり、自己を超えたまだあらぬ自己を主体的に選び取り続けるほかに存在のしようがないことを暴き出した。 ここで、この「まだあらぬ自己を主体的に選び取り続ける」ということは、必ずしもポジティブな意味に還元されるものではないことに注意する必要がある。 未来の自分の在り方を選ぶことに関する絶対的な自由が委ねられているということは、その選択の結果の責任は全て自分自身に帰するということである。 人間存在は実存が先立っていて本質に縛られることがないということは、不確実さに曝される不安に耐えるための拠り所がないということである。 このことをサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現した。
そのような不安に直面した人はしばしば、自らを既存の価値観に当てはめ、自らにレッテルを貼ろうとする。 既成のレールに乗ることで得られる「何者かである」という規定は、自由を制限する足枷であると同時に、主体的に選び取ったという責任から解放される免罪符でもあるからである。 このことを鑑みると、きらちゃんに一切の固定的な設定を付与せず無条件の肯定を与えているきらりんは、存在に対する素朴な、それでいて確固たる矜持を持っていることが伝わってくる。
今回はきらちゃんにまつわる事象からきらりんのメンタリティを垣間見ようと試みた。 しかしきらりんはそれ以外でも、ここで見てきたような固定化された意味やキャラ付けを自分に付することを必要としていない様子が散見されるように思える。 そのような自分に対する自信に満ち溢れているのとは少しニュアンスの違うような、自分が他のどの存在でもない自分らしい自分であることに対する信頼を、きらりんが素朴に持ち続けていることへの美しさに触れる契機になっていれば、本稿の目的は果たされたと言えるだろう。